問2.日々我れ

すきなことをかく

字義的な

-日誌

このところのお題によってはてな界隈はなかばお祭さわぎの様相をていしてをり、このブログの中の人も、日頃の感謝を伝へるべくささやかながら便乗した次第。お祭といふのはすなはちハレの日であるから、みなが浮かれて想い人へ愛を(愛を?)伝へるにはもってこいの非日常であるといへませう。リア充が2月に愛を告白するならば、はてなブロガーは11月に想いを告白するのです。

中の人曰く、想像以上の反応が返ってきたことが驚きとともによろこびであると。また中の人曰く、誰かや何かへの好意を伝へるといふことは想像以上に面白きことであると。

そのような声(こゑ)を聞きながら、私は反応、すなわち ” re-act ” について少し考えていた。接頭辞 ” re ” は、「再び」の意味合いをもっており、一種対象から出た矢印(→)が戻す矢印(←)としてイメージされうる。そしてその帰結には、当初の矢印をある程度反復しながら、そして程度はあれ若干の差異をもたらされているのではないか。

-通勤途中

と、どこまでがほんとうのことであるのか。言葉における字義的な意味(人はそれを定義と呼ぶかもしれない)から言語的解釈によって発生しうる意味(また人はそれを根拠の無い妄想だというかもしれない)へ飛び移りながら、どうしようもなくわくわくしてしまう。言葉という対象を分析する際、ら抜き言葉や使用場面の変遷など、サンプルを収拾することに重きをおく領野もあるが、今ここで問題になっているのは上記の事態である。

また、言葉から離れて、意味そのものについて考えた時、その対象は絵画や音楽といったものからも見出すことができるはずだが、やはり対象が言葉であるときほど、そのわくわくはやってこないのだった。

atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki