問2.日々我れ

すきなことをかく

お気に入りの(作家編)

私のお気に入りの作家には絲山秋子がいるのだが、私は彼女の作品を2、3冊しか読んだことがないと思う。だから自分でもお気に入りであるという自覚がないようで、人から好きな作家を聞かれても彼女の名前をあげることはまずない。

それでもお気に入りだと言ってみるのは、彼女の作品が評価される時に言われる「書かずに書く」という言葉に強く惹かれているからではないか。

絲山秋子の強みは「書かずに書く」ことである。そういう評価が与えられた場合、一般的には行間を読ませる作家だといえるかもしれないし、評価する人もその部分を評価しているのかもしれない。

そもそも行間を読ませるとはなにか。描写をあえて減らすことで、読者の想像力からその状況を引き出させる文章術とここでは定義しておこう。一定の空白を読者に与えると、与えられた側はその空白を埋めようとする。埋めるためには、この空白に必要なピースを探す必要がある。そのピースをとりだすための場所と行為が想像力といえよう。

(お気づきの方もおられると思うが、いま論はかなり強引におしすすめられている)

で。

絲山秋子はそういう作家であるのかと聞かれると、私にはそう判断することが難しい。

彼女が書いていないものとはなんであるのか。

まず「なにか」を書かないということはなんであるのか。おそらく「なにか」を書くことはさほど難しいことではない。いま目の前に犬がいたとして

犬が一匹いた。

 と、文字に書き起こすことはたいした労力ではない。

犬が一匹いた。名前はタマである。 断じて猫ではない。

 また続く文章によって、タマはあくまでも犬であって猫ではないこともわかる。

しかしタマはニャアと鳴く。これは生まれついてのものだ。 これがタマと名付けられたゆえんである。

 ここまで読者はタマという変わった鳴き方をする犬の話だと思うだろう。もっと素直な読者は、タマと名づけた犬が実は猫だったと疑いをもつかもしれない。

このようにして「なにか」を書くことができる。

一方で書くということは書かないということでもある。タマという犬を書くことで筆者は目の前にいた(かもしれない)ミケという名の犬の話は切り捨てている。ある対象に焦点をあてれば、焦点をあてられなかった対象は有象無象となってしまう。

だかこの逆の書かないということは書くということだという文は真であるのか。

一般的には否であるだろう。

だが絲山秋子はそれを真にしている。

書くことがある程度できるようになってくると、ある時点で今度は「書かない」ことを要求されるようになってくる。意識して書かない。

そのようにしてできあがった文章は空間性があって、特に奥行きがある、そして物語はいつの間にか終わっているのに、現実世界のふとしたところからひょっこり顔をのぞかせているのだった。

ニート (角川文庫)

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逃亡くそたわけ (講談社文庫)

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atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki