問2.日々我れ

すきなことをかく

むしろ

Tカードを作りました。
ドラッグストアで買い物をしたら店員のお姉さんが優しく聞いてくれたので、ささいなことがなにかにつながると思って作りました。
そしたら大人になれたような気分になれました。

 このあいだ救いについての文章を書きました。それを書いたことで、わたしは、外的救済と内的救済のふたつがあると考えているということになりました。
救いを求める側が自らの救済のために外的救済に回ることで、社会構造を変革する救済者となるケースがあります。その場合社会構造が変わることによって救われる人というのが出てくると思うのですが、そうすることでかならずこの救済者は救われるかというとそれは絶対じゃないわけです。

多分なんでかっていうとそれは一時的な痛みではなくて傷であり、そして傷とはいつまでも残るものです。この傷は痛みを伴わなくても存在し、時々痛んだりもします。しかしこの傷はあくまでも内的なものであって、目には見えません。だからこれを癒すのは多分内的な自己の意思によるものなのではないかと思います。

根源的な悲しみって生まれついたときにはもうすでに誰もが持っててそれの現れ方も他者への見せ方も異なると思います。
そこには当事者の外側から肩代わりできない苦しみを見る痛みっていうのもあるはずで、その状況を当事者から憎まれる痛みってのもあって、痛みにはいろんなものがある。わかるよそれでもわたしそばにいるからねっていう気持ちが自己満足なんだよって当事者から拒絶される痛みもある。そういう痛みすべてを引き受けたことがある人は多くないのではないか。

むしろいろんな痛みのレベルがあること、傷は消えないこと、内的救済なしには救済が完了しないのに人は常に傷つけあっていること、傷ついたまま人生は死ぬまで続いてどこかで誰に出会い変わっていくことがいつなのかわからないことを自身が知っておきたいとわたしは思うのでした。礼。

atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki