問2.日々我れ

すきなことをかく

自分の片割れがどこにもいなかった話

今週のお題「今だから言えること」

10代の頃、ふたごを探していたことがあった。この自分の片割れなるものはもちろんわたしの好きなものが好きだし、それから嫌いなものが嫌いで、言葉の感覚やユーモアのセンス、同じような傷つきをしていて能力的にも同じでやっぱり似たような人生経験をしていて、ツーカーであうんの関係を構築していくはずだった。

自分の片割れはどこかにいたしいるはずなんだけど気がついたらわたしは出会えていなくて、これはおかしいなこないなどこかなどこかなーって白馬の王子様をパカラのラの音ぐらいでひっとらえるぐらいの気持ちで、毎日図書館とか部員数片手以下の部室で本読みながら待ってたんだけど来なかった。

ときおり、それに近い人に出会うこともあった。かなり、近い時もあった。でもどこか惜しくてどこか決定的にわかりあえない隙間があって、ずれてる、っていうヒビみたいなものにきづいてしまうと方向転換の早さはピカイチだった。ああ自分の片割れではないどこかなどこかなーってまた一から始めるのだった。

このような不誠実な態度でまっとうな人間関係を築けるはずはないのだけど、わたしの周りの人達は優しかったから、甘えていた。当然傷つけていて、傷ついたつもりでいた。

でもある日やめてしまった。選挙権を行使できるようになって、さらに1年ぐらいしてからだった。教科書と図書館で借りたハードカバー5冊ぐらい詰めた登山用リュック背負って、大学の薄暗い廊下に貼ってあった歓喜天の彫刻メインにした展覧会のポスターの前に立ってたら気付いてしまった、

ブラジルまで行ってもわたしに双子の片割れなんておらんのやって。

悲しかった。すごく。

しばらくは未練があって、それからすぐ友人とも喧嘩して一人ぼっちを謳歌しようとしていた時に、やっぱいるんじゃないかこれは。いやむしろいてほしい、いてほしいいてほしいとか考えながら、電気の消えた空き教室で勉強しながらおもった。でも風にあおられてバタバタめくれあがるカーテンから差し込む光ばっかり明るくて、私はその透明な風をうけながら、おらんのやで、そういうのはおやんのやでって言い聞かせてるうちにやっぱりいないんだなって、思って歩いたひとけのない薄暗い大学の廊下だけ、今となってはやけに印象に残ってる。

atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki