問2.日々我れ

すきなことをかく

等身大、ということばは嫌いだ。

等身大という言葉がいまだによくわからなんだ。いつだってわたしは頭のてっぺんから足の先までわたしで充足しているっていうんにさ。

 だいたい、わたしは等身大という言葉を使ってほめられたことがない。まだなんらかの庇護下になければ生きていけない子どものことを、一人の人間としてみるひとが幼いころからのわたしを面白がった。これは想像でしかないが、わたしは塗り絵の線の外を生真面目にはみ出していた。めちゃくちゃにははみ出さなかったゆえに、私はあまり目をつけられることがなかったのだ。たぶん、たぶん。

大きくなるにつれて私のズレがあらわになっていった、というのはおそらく反対で、むしろそのズレに敏感であったのは今もむかしも同質性を好むひとたちであり、そのような同質性を拒みさえしなければわたしは仲間であったが(とはいっても好き嫌いの激しい私があらゆる規則をすんなり受け入れてきたとは思えないが)、ときおりそこからだあーっとはみ出してしまうと私は異質だと思われてしまうこともあって、そういう視線に慣れることがない。わたしはなんの思想性も政治性も帯びていないから、そういう風な人間だと思われるのはたいそう好ましくない。一貫性がないだけなのだ、困ったことに。

そうそう途中から話がずれてしまった。

等身大、ということばは嫌いだ。

等身大ということばが使われるのはその人自身が充足していることへの賛辞というよりも、その人に付属しているカテゴリーが賛辞者にとって理想的な形であますところなく表現に反映されていることへの賛辞であって、そこからはみ出てしまった美しい数々のサムシングエニシングエブリシングはザッツオールされてしまう(That's all. はシンプルで強く美しいことばだから好きだけど)。わたしが私からはみでているうつくしい部分、むしろそちらに本質が宿っているであろう部分、を、等身大ではない、だなんて切り落とされる痛みを、あなたにも味わってほしい。

でもあなたにも味わって欲しいというのはあくまでも一時的な願望で、わたしはそういうことなしに、肉眼では見えないような遠い、遠い銀河の星々の輝きを胸に、ぼやあと光っていたい。

わたしはわたし以外のものになる必要がないし、私でいる必要もない。

 

atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki