問2.日々我れ

すきなことをかく

寄る辺ないタイトル

誰かの袖をつかんでいたい夜がある。けれどつかんでいてもよさそうな人は大体見つからず、私は文章を書く。

同じ現実世界にあるのに、私には見えていない世界もたしかに進行していて、それをわざわざわたしは知らなくても、きちんと生きていられたはずなのに、何かのタイミングで、不可視だった世界が可視化されてしまう。
可視化というにはあまりにも曖昧で、それもまたあらたに枝分かれしている世界の一つと仮定することも出来るのだが、いずれにせよ知らなくてもよかったことが立ち現れるそのとき、わたしは大変動揺してしまう。

うまく地面をつかむことができなくなって、いやだないやだな、否定はしないがしね、みたいな強い言葉がスカイフィッシュのごとくあたまのなかを、あるいは内臓のすきまを、やわらかいたましいの外側を飛び交う。そうしてわたしは「しねばいいのに」のほうが言葉として質が悪いだなんて肯定し始めている。そんなふうにして嫌いなもののことを書き、好きなもののことだけを大事そうに両手いっぱいにあつめてはメガネのレンズ一枚が隔てている外部を威嚇する。

ここまで書いて私は、円城塔がかつて朝日新聞に寄せた「秘密」の文章のことを思い出す。時事問題を扱いながら、当の問題には触れることなく書ききった、その文章を私は美しいと思ったし、想像力とレトリックに支えられた誇りを見た。

書く、ということは書かれているものによって見いだされるはずなのにわたしたちは、いつしか書く行為を対象として書く。対象は言語によって分析され解体されていく。言語によってひん剥かれていく。りんごのあのきれいな赤い皮はいったいどこへいってしまったの?

それでも寄る辺ない夜に文章を書く。言葉がすべてを小さく小さく解体していって、もはや対象が見えなくなってしまうか、あるいは、解体作業のその先にあるそれらを再び創造していくか、のどちらかを追い求めようとして。

atuihiga tudukanakutemo okaradani okiotukete chihoutosiyori (c)Imada_Natsuki